大貫隆「グノーシス「妬み」の政治学」
「妬み」を「そねみ」と讀んでゐたことから告白せねばならぬ。
初手からつまづいた恰好ですな。
「ねたみ」だと知つたところで簡單にアタマがきりかはるわけもなく、「そねみ」と讀んではああ「ねたみ」だつたと思ふことをくりかへして最後まできてしまつた。
そもそも「ねたみ」といふ和語に漢字をあてる必要があるのか、などとやつあたりしたくなる。
そして本書ではねたみを二つのタイプに分類してゐる。ひとつは「他者が自分よりも大いなる善を享受してることに対する妬み」であり、もうひとつは「自分が享受している善を他者に分け与えない妬み」である。
これがよくわからない。後者をねたみといふのだらうか。すくなくとも私の語感ではちがふのだけれど、語感なんてな自分でもどうして成立したのかわからんシロモノだから心許ない。
ついでにねたみがグノーシスの神話の構成原理だといふ主張も、牽強附會と申しますか、我田引水の氣味があるのではないか。
さらにマニ教が積極的に政治にかかはつたといふのも納得ゆかぬ。いくつかの國で國教となつたからといつてそんな結論をだせるものだらうか。せいぜい反体制的ではない、くらゐのことのやうに思はれる。
それはそれとしてグノーシスはおもしろい。とりわけ私が氣にいつてるのは造物主がワルモノであることだ。
全能にして善なる造物主がつくつたにしては、この世界はいろいろとアレである。それを惡魔のせゐにしたつて、惡魔の製造責任てもんがありませう。
つてことで造物主をワルモノにして、創造神話をパロディ化する。たとへば、エデンでエヴァを誘惑するヘビ。これがイイモノになつてしまふのですね。かういふ裏讀みは清水義範のある種の小説のたのしさに通じるものがある。
でも、つらつら思ふに、グノーシスの至高神にだつて惡しき造物主の製造責任はあるよねえ。この世界をかういふ状態ではふつてある管理責任だつてあるかもしれない。
けつきよくおなじことかしらん。
- 作者: 大貫隆
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/07/18
- メディア: 単行本
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