科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる

 ひとはなぜ對話篇を書くのか。プラトン以來、多くのひとが對話編を書いてきたわけで、對話編を書くことはむしろオーソドックスなことかもしれぬ。いやプラトン以前にもあつたのかもしらんがそれはまあいい。
 だが對話篇を讀むと、セリフの巧拙とか人物の造形とか、餘計なことも氣になつてしまふ。べつに氣にしたくはないがさうなつてしまふのだ。小説ではないから風景だの心理だのを描寫しないでよいので簡單だとでも思ふのか。だがシェイクスピアだつて書いたのはほとんどセリフである。對話篇をなめてはいけない。
 作劇的にはすべてがセンセイの掌のうへで議論がすすみ、ひどく豫定調和的であることが難である。それはプラトンだつてソクラテスがきまつて勝つわけだが、この本では議論のダイナミズムに乏しくて對話篇にした意味が見えない。
 でもいちばん問題なのは實在論をとらねばならぬ理由が不明なことだ。前提として實在論への信仰がある。そのうへで實在論をまもるための議論をいろいろしてゆくが、信仰を前提としてゐるから、ためにする議論、護教論にしかなつてゐない。
 じつは最終章でかるく實在論信仰の理由にふれてはゐる。そのひとつは直觀に反するからだといふのだが、これではみづからの直觀や日常的感覺に反するから相對論を批判するやからとかはらない。もうひとつは科学への信頼がゆらいでゐるからださうで、こんなのは最近は信仰がうすれてゐると憂慮するやうなものではないか。なにを憂慮しやうがそれは當人の勝手であるけれど、他人には説得力がない。それなのに二十階から飛び降りろなんて亂暴なことをいふのは(ソーカルかだれかのことばを借りただけだらうが)むしろ信頼をそこねるのではないか。