水村美苗「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」

 けつきよくは小説家の心配ごとではないのか。つまり、日本語で書いた小説は世界であまり讀まれないのに、英語だとちがふ。それがくやしいみたいな。
 いや、この本のテーマはそこまでチンケではない。でも、科學者が英語でなく日本語で論文を書いたとしても、どうせ私はそれを讀まないわけですよ。讀んでもわからんだらうし。すると、やはり小説の問題になる、やうな。
 「私の國語教室」を讀んだときは悲憤慷慨した。もう、憂國の念にたへぬと申しますか、いきほひあまつてかうして正字正かなで文をしるすにいたつた。だから日本語教育がなつとらん、てな話には完全に賛同するのです。
 だから結論でなく、論理の展開に問題があるのだと思ふ。「叡智を求める人」とその他おほぜいの莫迦ども、といふ二分法が單純すぎるのではないか、とかね。
 それから福田恆存の文章をひいたりするなら正字正かなで書いてほしかつた。そこまでいかなくとも表外字の書きかへなぞしてほしくなかつたなあ。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で