服部氏の文章はきわめて明瞭かつ論理的である。第二部の対談も今までで一番スイングしていた気もする。だが、それでもひたすらややこしいだけの思想に見えるのだ。こういう形而上学や認識論にノータッチだった釈尊はやっぱりえらい。思えば孔子は怪力乱神を語らなかったそうだし、福音書やプラトンの対話篇を読むかぎりではイエスやソクラテスもそうだったようだ。えらい思想家はそういうものなのではないか。もっとも、唯識思想はヨーガの実践とセットになっていたそうなので、頭だけの理解をしようとするからそう思うのかもしれぬ。
初期唯識思想書の著者がマイトレーヤを騙っているのはどう考えればいいのか。こんな複雑な思考をする人間がどうしてこけおどしをするんですかねえ。