「ミステリ・オペラ 宿命城殺人事件(下)」(山田正紀)

 『映画、映画、映画で酔っぱらおうとしてる』
 と、これは蓮實重彦さんとの対談における淀川長治さんの言葉であります。『映画以外の何かを信じてる』タルコフスキーと対比させて「2001年宇宙の旅」のキューブリックを評したこの言葉を、読んでいて思いだした。「奇偶」や、あるいは麻耶雄嵩さんの諸作などは、本格ものとしてはかなり破格でありながら、ミステリ、ミステリで酔っぱらおうとしているのに対し、この作者はミステリを何かに利用しようとしている。それは『この世では探偵小説でしか語れない真実というものがある』云々というセリフが反復されることに明かではないか。
 もちろん、何かのためのミステリがミステリのためのミステリより必ず劣るというわけではないのだろう。たとえば麻耶氏に対する評価は、とんだくわせものてなところに将来落ちつくおそれもあるし、すくなくともキューブリックはくわせものであった。それでも、作者のミステリに対する不誠実はやはり作品の完成度に影響し、ミステリを読んだという充足感を得られなくする気がします。
 くりかえしになるけれどもパパゲーノのあつかいの小ささは気になる。ホームズの昔から探偵は事件を解決するヒーローであるとともに、奇矯なふるまいで読者を笑わせる道化であった。探偵すなわち道化すなわちパパゲーノならば、歴史をめぐる闘争においてザラストロ側にも夜の女王側にもつかず、ワインと女の子がいればいいさと超然としているはずではないのか。パパゲーノにならなかった黙はつまり探偵であることを抛棄したわけで、そのような展開はまさに探偵小説への不誠実の証左といえましょう。
 上のごときことを風呂あがりにぼんやりと考えたものの、読みかえすとさっぱり中身がないですな。ミステリとしての感想はというと、パラレルワールドの処理がスマートでない。また、探偵だけが知っていて読者に提供されない情報が多すぎる、つまりアンフェアではないか、というところか。「神曲法廷」読後の私の感想は、日本の検察制度はこのままでいいのか?といったはなはだミステリ的でないものだったから、それと比べればまだミステリ的ともいえますかねえ。